転がっていたはずの人生が、いつの間にか “積み上がって” いた
気がつくと、私は今日も階段を登り降りしています。
特別な目的があるわけではありません。いつもの場所に、いつもの階段があるだけです。
けれど、10年ほど前に体重を減らすために歩き始めたその階段は、
いつの間にか、私の人生を形づくる習慣になっていました。
昔の私は、どちらかといえば「転がる」タイプでした。
ひとつのことを続けられず、面白そうなことに飛びついては、すぐに飽きてしまう。
努力という言葉にはどこか息苦しさを感じ、「続けている人」は自分とは別の世界の人のように思っていました。
そんな私が、今では週に2〜3回の朝、階段を登り降りしています。
きっかけは軽い気持ちだったのに、続いている理由は「身体が覚えているから」に変わりました。
頭で考えて決めたことではなく、身体のほうが先に動くのです。
まるで、身体が「今日も行こう」と小さく背中を押してくれているような気がします。
思い返すと、この10年でいちばん変わったのは、考え方よりも身体のあり方でした。
考えるより動く。迷うより試してみる。
その繰り返しの中で、少しずつ人生の形ができてきたのだと思います。
転がっていた石が、少しずつ積み上がって、ひとつの段差になっていくように。
私は「積み重ねるのが得意な人間」ではなかった

続ける人に、ずっと憧れていました
若いころの私は、何かを続けることが本当に苦手でした。
資格の勉強も、日記も、ダイエットも、三日坊主で終わることが多かったです。新しいことを始めるときはいつもワクワクしていたのに、少しでもつまずくと、自分の不器用さに落ち込んでしまいました。
「継続は力なり」という言葉を聞くたびに、少しだけ胸が痛みました。
続ける人は強い。努力を楽しめる。そう思いながらも、自分はどこかで「どうせ無理だ」と決めつけていたのです。
頭では「やる気さえあればできる」と思っても、身体のほうがついてこない。
そんな自分に、ずっと小さな劣等感を抱えていました。
頭の中ばかりが忙しかった頃
今振り返ると、あの頃の私は「身体」よりも「頭」で生きていたように思います。
うまくいかない理由を考えすぎて、動く前に疲れてしまう。
計画を立てても、最初の一歩を踏み出すまでに何日もかかる。
行動よりも思考にエネルギーを使っていたのです。
失敗するたびに、「やっぱり自分は続けられない」と落ち込み、その自己評価が次の挑戦の足を引っ張りました。
努力を積み重ねるより、失敗の記憶を積み上げていたのかもしれません。
だからこそ、「続ける人」への憧れはずっと心の奥に残り、自分との距離を測るような存在になっていました。
けれど、後になって気づいたのです。
“積み重ねが苦手” だったのではなく、頭で考えすぎて、身体が動けなくなっていただけだと。
そのバランスを取り戻すきっかけが、あの「階段」でした。
体重を減らすために始めた階段の登り降り

きっかけは、ただの現実的な理由でした
階段を登り降りするようになったのは、10年ほど前のことです。
きっかけはとても単純で、「メタボ予備軍と言われたから動こう」と思っただけでした。
ジムに通うほどではないけれど、手軽に続けられる運動がしたかった。
それで、いつもの場所に、いつもある階段を「今日は一番上まで登ってみよう」と思い立ったのです。
特別な覚悟も、目標もありませんでした。
「健康のために」とか「人生を変えよう」なんて大それた気持ちはなく、ただ現状をどうにかしたいという軽い焦りがあっただけです。
運動靴を買い替え、階段の段数を数えてみたりして、最初の数日は少し楽しく感じていました。
それでも、三日坊主になるかもしれないと思っていたのは正直なところです。
“続けよう” と思わなかったから、続いた
ところが、気がつくと一週間が過ぎ、さらに一か月、三か月と経っていました。
特に意識を高めたわけでもなく、ただ「そこにある階段を使う」だけの日々。
それでも、身体の中に少しずつ変化が生まれました。
脚の筋肉が疲れにくくなり、息切れが減り、気持ちも少し軽くなっていきました。
おそらく、このとき私は初めて「頭で続けよう」と考えずに、自然と「身体が動いている」状態を体験したのだと思います。
やる気や根性ではなく、身体のリズムに任せて動く感覚。
それは、長年 “続けられない自分” と思い込んできた私にとって、静かな驚きでした。
後になって思えば、あの階段は、私の人生をもう一度動かしてくれた「最初の段差」だったのかもしれません。
気づけば10年続いていた

やめた時期もあったけれど
階段を登り降りする習慣は、決して完璧ではありませんでした。
忙しい時期にはやめてしまったこともありますし、雨の日や体調の悪い日は、平気でエレベーターに乗りました。
「三日坊主」ではなくても、「ときどき坊主」くらいのリズムです。
それでも、なぜか完全にやめることはありませんでした。
ある日、ふと気づくと、また階段に足を向けている。
理由を考えるよりも先に、身体が動いているのです。
「今日こそ歩こう」と決意した覚えもなく、ただ自然と脚が階段を選んでいました。
続ける意思よりも、戻る感覚 ― それがこの習慣の不思議なところでした。
身体が覚えていた
再開するたびに感じたのは、「前より少し楽だな」という感覚でした。
筋肉が完全に衰えていない。身体のどこかが、登るリズムを覚えている。
それがうれしくて、また続ける。そんな小さな循環が、気づけば10年をつないでくれました。
「続けよう」と努力した記憶より、「戻ってこれた」実感のほうが強いです。
たとえ離れても、身体はまた自分を元の場所へ導いてくれる。
この “戻る力” こそ、頭で作る計画や目標より、ずっと確かなものなのかもしれません。
そしていつしか、階段の登り降りはただの運動ではなく、自分の時間を取り戻す静かな儀式のようなものになっていました。
身体を使う習慣は、考えすぎる自分を黙らせてくれた

黙って動く時間が心地よかった
階段を登り降りする時間は、不思議と静かでした。
音は足音だけ。誰かと話す必要も、説明する必要もありません。
ただ自分の呼吸と、脚のリズムだけがある。その単純さが、次第に心地よくなっていきました。
それまでの私は、何をするにも「意味」や「成果」を探してしまうタイプでした。
効率よくやるにはどうすればいいか、何のために続けるのか ― そんなことばかりを考えていました。
けれど階段を登り降りしているときは、そんな理屈がどうでもよくなるのです。
息が上がって、太ももが重くなる。そうすると、頭の中の声が自然に静まっていきます。
「考えないこと」が、こんなにも穏やかなのかと、そのとき初めて知りました。
誰にも見せなくていい時間
階段を登り降りすることには、誰かに評価される場面がありません。
写真を撮るわけでも、成果を発表するわけでもない。
SNSに記録を残さなくても、誰かに褒められなくても、ただ自分の脚で一段ずつ登り降りするだけです。
その “見せない時間” が、思っていた以上に自分を楽にしてくれました。
そのバランスが、私の心を少しずつ整えていったのだと思います。
階段は、いつの間にか私にとって「静けさの場所」になっていました。
そしてその静けさが、日々の雑音の中で、自分を取り戻すための小さな避難所になっていったのです。
ブログもまた、身体の延長だった

「書くこと」も、身体の動きのひとつでした
ブログを書くようになったのは、2024年の夏、階段の登り降りをし始めてからは数年経った後のことでした。
最初は誰かに読んでもらうことを意識していましたが、いつの間にか「とにかく書く」ことが日課になっていきました。
パソコンに向かって指を動かす。言葉を並べて、また消す。
その繰り返しが、階段を登り降りするときのリズムとどこか似ているように感じたのです。
うまく書ける日もあれば、何も浮かばない日もあります。
それでも、書くことをやめようとは思いませんでした。
考えが整理できないときも、とりあえず指を動かしていると、言葉が少しずつ形を取っていく。
頭で考えるより、身体の動きが先にある ― その感覚が、私を何度も助けてくれました。
書くこともまた、身体が覚えた習慣のひとつになっていたのです。
反応がなくても、残るのは「行為」だけ
ブログを書いていても、毎回誰かが読んでくれるとは限りません。
反応がない日もありますし、「これは失敗だったかな」と感じる投稿もあります。
でも、不思議なことに、そういう日でも「書いた」という事実だけは残るのです。
たとえ誰にも届かなくても、自分の中には確かに “行為” の痕跡がある。
階段の一段一段と同じように、小さな「積み上げ」が見えないところで形を作っていきます。
それに気づいたとき、私は「続けること」への考え方が変わりました。
成果や結果は変動しても、身体を動かしたという事実は消えない。
だから、書くこともまた、身体の延長線上にある “静かな行為” として大切にできるようになったのです。
50歳近くなって、行動が「地味な積み上げ」に収束してきた

派手さよりも、確かさを選ぶようになった
50歳が近づいてきた頃、私はふと、自分の行動のパターンが落ち着いてきたことに気づきました。
若い頃のように新しいことへ飛びつくことも減り、日々の繰り返しの中に安定を感じるようになったのです。
どれも地味で、誰かに自慢できるようなことではありません。
けれど、それらの行為には共通した “身体の手応え” がありました。
頭の中で考えた理想ではなく、自分の手足が覚えているリズムで一日が動いていく ―
その感覚が、思いのほか心地良かったのです。
「特別な何かを成し遂げたい」という気持ちは、少しずつ静まっていきました。
代わりに、「今日も同じことを淡々とできる」ことに安堵を感じるようになりました。
身体に根ざした日々の積み上げ
今の私は、階段の登り降りも、ブログを書くことも、ハウスクリーニングお手伝いの仕事も、
どれも同じ線上にあるように感じています。
それぞれの行為が、身体を通して世界とつながる方法になっているのです。
派手な成果はなくても、確かに身体がそこに関わっている。
その事実が、日々の小さな誇りになっています。
若いころの私は、変化のない毎日を「退屈」と思っていました。
けれど今は、同じことを繰り返せることこそが、自分を壊さないための支えだと感じています。
積み上げるとは、何かを増やすことではなく、自分の身体と折り合いをつけながら日々を積んでいくことなのだと思います。
身体が選んだ人生は、壊れにくかった

無理をしないことが、続く理由でした
今の私は、がむしゃらに頑張ることがなくなりました。
それは怠けているわけではなく、「自分のペースを守る」という感覚に近いです。
若い頃は、つい背伸びをして、他人のリズムに合わせて動こうとしていました。
でも、それではどこかで息が切れてしまう。
階段も、仕事も、書くことも、同じです。
毎日きっちりではなくても、できる範囲で続ける。
調子が悪ければ休む。そうやって身体に合わせていくと、自然と「続けられるリズム」が見えてきました。
無理をしないことが、結局いちばん長く続く道だったのだと思います。
身体は嘘をつかない
頭の中では、いくらでも理想を描けます。
でも身体は、正直です。
疲れているときは動けないし、気持ちが沈むと足取りも重くなる。
だからこそ、身体のサインに耳を傾けるようになりました。
身体が選んだペースで生きていると、人生が少しずつ壊れにくくなっていきます。
見栄や焦りで動かないぶん、回復も早い。
そして、続けることへのプレッシャーがなくなると、日々の行為そのものが穏やかになります。
「無理をしていない」ということが、こんなにも強いことなのだと、今になって実感しています。
まとめ:階段を登るように、人生も登っていたのかもしれない

気づけば、人生もまた階段のようでした。
一段一段は小さくて、登っているときはどこまで行けるのかも分かりません。
ときどき休み、立ち止まり、降りることもある。
それでも、積み重ねてきた時間の分だけ、少しずつ景色が変わっていました。
速く進むことを目指さなくなった分、脚も心も軽くなりました。
「今日も登れた」という小さな実感があれば、それで十分なのだと思います。
誰かと競うわけでもなく、目的地を決めるわけでもない。
ただ、自分の身体が覚えているリズムで、一段ずつ登っていく。
それが、今の私にとっての “続ける” ということです。
階段を登るように、今日もまた静かに日常を積み上げていけたら ―
そう願いながら、明日も同じ道を歩いていくのだと思います。
おことわり
本記事は筆者自身の体験と感じ方に基づいて書かれたものです。
健康法やライフスタイルの効果を保証するものではありません。
ご自身の体調や環境に合わせて無理のない範囲でお試しください。
本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。
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