先日、ライフプランというものを立ててみました。
これから先の収入と支出を並べて、
90歳くらいまでのお金の流れを見通す作業です。
結果は、ひとまず「大丈夫そうだ」というものでした。
そんな静かな見通しです。
安心しました。
けれど数日経って、思いがけない問いが浮かんできました。
- 「では、90歳まで生きる意味はなんだろう」
お金の計画が立ったのに、
いえ、立ったからこそ出てきた問いでした。
この記事は、その問いにひとつの答えが残るまでの記録です。
計画は「いつまで」を教えてくれる。「なんのため」は教えてくれない

ライフプランを立てる前は、
老後の心配といえば、お金のことだと思っていました。
老後の不安はお金の不安。
見通しさえ立てば、安心して生きていける。
私も、そう考えていました。
ところが実際に見通しが立ってみると、
不安が消えた場所に、空白が現れました。
計画表の上では、90歳まで生きる前提としています。
これまで生きてきた時間と、ほぼ同じ長さです。
90歳という数字そのものに、深い根拠はありません。
計画の便宜上の、ひとつの目安です。
それでも「そこまで生きるとしたら」と考え始めた途端、
数字は急に、問いの形に変わりました。
- その40年を、どう生きるのか。
計画は「いつまで」は教えてくれても、
「なんのため」までは教えてくれませんでした。
「成し遂げるため」では、しっくりこなかった

最初に浮かんだのは、達成型の答えでした。
世の中で語られる「生きる意味」の多くは、この形をしています。
でも、私にはしっくりきませんでした。
残りの40年を目標のリストで埋めていく生き方は、
想像しただけで、少し息苦しかったのです。
達成した瞬間は、きっと嬉しいでしょう。
けれどその先には、また次のリストが待っています。
リストを消すために生きるのは、
どこか、順番が逆のような気がしました。
それに、振り返ってみれば、
今の私を支えているのは、
何かを成し遂げた記憶ではありませんでした。
どれも「成し遂げた」というより、
気づいたら続いてきたものばかりです。
育っていくものを、見届けるため

そう気づいたとき、別の答えが浮かびました。
あらためて見回すと、私のまわりには、
育っていく途中のものがいくつもあります。
11年続けてきた階段の登り降りは、
これからも私の身体を少しずつ作り替えていくはずです。
書き溜めてきた文章は、1本ずつ増えながら、
数年前の自分では書けなかったものになっていきます。
どれも、今日や明日に完成するものではありません。
主役として何かを成し遂げるのではなく、
育っていくものたちの隣にいて、その変化を見届ける。
90歳までの時間をそのためのものだと考えると、
40年という長さが、急に意味を持ち始めました。
長生きは、それ自体が目的なのではなく、
観察の続きができる時間なのかもしれません。
だとすれば、大切なのは壊れないことです。
見届ける側が先に立ち止まってしまっては、
続きが見られないからです。
壊れない形で人生を積み上げるという考え方は、
ここにつながっていたのだと、あとから気づきました。

複利と同じで、答えは選ぶものではなく残るもの

もうひとつ、気づいたことがあります。
この答えは、選択肢を並べて選んだものではない、
ということです。
生きる意味を探すというと、
棚に並んだ答えの中からひとつを選び取るような
イメージを持っていました。
でも実際に起きたのは、逆のことでした。
11年続けてきたことを静かに振り返っていたら、
答えのほうが、あとから浮かび上がってきた。
これは、複利の形とよく似ています。
複利は、ある日大きな成果を選び取る仕組みではなく、
小さな積み重ねの上に、静かに残っていくものです。
時間の複利について書いたときも、
同じことを感じていました。

おそらく、90歳の私が持っているはずの「生きる意味」も、
今の私が選んで決めるものではないのでしょう。
これから続けていくものの中に、
そのつど、残っていくものなのだと思います。
そう思えたことも、小さな救いでした。
まとめ:見届けるために、今日も1段

ライフプランは、お金の見通しをくれました。
そして思いがけず、
「なんのため」という問いもくれました。
今の私の答えは、こうです。
だとすれば、今日やることは変わりません。
90歳の自分が、何を見届けているのか。
それを楽しみに、今日も1段を積んでいきます。
日々の小さな記録は、noteのマガジンにも静かに綴っています。
おことわり
本記事は情報提供を目的としており、特定の効果・効能を保証するものではありません。
健康に関するご判断は、必ず医師・専門家にご相談ください。
本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。

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