落ち着く人生は来ない、と言われたとき
「人生、落ち着くときなど来ません」
そんな言葉を聞いたのは、何かに行き詰まっていたときでした。
正直に言えば、少し乱暴な言い方だと感じましたし、
そこまで言わなくてもいいのでは、と思ったのを覚えています。
当時の私は、ずっと「落ち着く日」を待っていました。
そうやって条件を並べ、その先にようやく
安心できる人生が始まると、どこかで信じていたのだと思います。
だから「落ち着くときは来ない」と言われたとき、
それは希望を否定されたようにも感じました。
けれど不思議なことに、その言葉は強く反発したわりに、
時間が経っても、頭の片隅から消えてくれませんでした。
それは、答えとしてではなく、
ひっかかりとして残り続けました。
何かを前向きに変えたわけでも、
気持ちが楽になったわけでもないのに、
ふとした瞬間に思い出してしまう。
いまの自分は、本当に「落ち着く日」を待つ必要があるのだろうか?
そんな問いが、はっきり言葉になる前の段階で、
ずっと胸の奥に残っていました。
落ち着く日を待ち続ける生き方は、
もしかすると、ずっと現在を仮の状態にしてしまうのではないか。
そんな疑問が、後から静かに浮かんできたのです。
この記事では、
「人生は落ち着かない」という前提を受け入れたうえで、
それでも壊れずに、静かに続いていく感覚について書いてみようと思います。
特別な成功の話ではありません。
日々、同じ階段を登り降りする生活の中で、
少しずつ気づいたことを、そのまま辿っていきます。
落ち着く人生を、無意識に待っていた頃

これが整えば、次は安心できると思っていた
振り返ってみると、あの頃の私は、人生をいくつかの項目に分けて考えていました。
仕事。お金。健康。家庭。
そして、その一つひとつを順番に整えていけば、最後には「落ち着いた状態」に辿り着けると、どこかで信じていたように思います。
そうやって現在を仮の状態として扱い、
本番の人生はもう少し先にあるような気がしていました。
実際、何かが整った瞬間はありました。
そのたびに、「これで少しは落ち着ける」と思ったのです。
その感覚は、
未来のために現在を使っている、というより、
現在を通り過ぎて未来へ向かっているようなものでした。
今日を生きているはずなのに、
どこか常に留守にしているような感覚があったのです。
整うたびに、別の不安が現れていた
けれど、その安心感は長く続きませんでした。
何かが解決するたびに、別の場所から不安が顔を出す。
そんな繰り返しでした。
そう考えて、さらに「整える努力」を重ねていました。
でも今思えば、そこには一つの前提がありました。
人生は、条件が揃えば落ち着くものだ、という前提です。
そして、その条件は、いずれすべて満たせるはずだ、という期待です。
現実の人生は、そんなふうには進みませんでした。
人生そのものが、最初から「落ち着かない構造」をしているように感じられたのです。
それでも当時の私は、その構造を疑うことができませんでした。
そうやって、今日という一日を、ずっと準備段階のまま通り過ぎていたのだと思います。
階段の登り降りが教えてくれたこと

階段にはゴールがない
そんな「落ち着かない途中の人生」の中で、
特別な意味もなく続けていたのが、階段の登り降りでした。
運動習慣と呼ぶほど立派なものではありません。
ジムに通うわけでも、目標の回数を決めるわけでもなく、
ただ、エレベーターを使わずに階段を選ぶ。
それだけの行為です。
階段には、ゴールがありません。
今日登ったからといって、明日は免除されるわけでもない。
前回と同じ段数を、今日もまた登る。
何かを達成した感覚も、終わったという区切りもありません。
人生を落ち着かせたいと思っていた頃の自分にとって、
この「終わりのなさ」は、どこか物足りないものでした。
それなのに、なぜかやめる理由も見つからず、
気づけば、同じ階段を登り降りする日が続いていました。
それでも身体は、確実に変わっていった
変化に気づいたのは、ずいぶん後になってからです。
ある日、息が切れなくなっていることに気づきました。
別の日には、脚取りが軽くなっていることに気づきました。
数字で測ったわけではありません。
体重が大きく減ったわけでも、
目に見える成果が出たわけでもありませんでした。
それでも、「壊れにくくなっている」という感覚だけは、
確かに身体の中に残っていました。
調子の悪い日は、
昨日と同じようには登れません。
それでも、昨日より劣っていると感じることはありませんでした。
今日は今日の身体で登っている、
それだけのことだと思えるようになったからです。
階段は、相変わらず同じ形でそこにあります。
段数も、高さも、何も変わっていない。
変わったのは、こちらのほうでした。
毎日同じことを繰り返しているだけなのに、
身体は少しずつ適応し、
無理をしなくても動ける範囲が広がっていく。
完成に向かっているわけではないのに、
確実に「続く状態」には近づいていました。
落ち着かないのに、壊れないという感覚
そのとき、ふと考えました。
人生も、これと似ているのではないか、と。
階段には落ち着く瞬間はありません。
登っても、また次があります。
それでも、登り降りし続けることで、
身体は静かに整っていきます。
人生もまた、
不安が消えることはなく、
状況が完全に安定することもありません。
けれど、落ち着いていないからといって、
必ずしも壊れるわけではない。
そうした考えが、
実は思い込みだったのではないか。
階段を登り降りしながら、
そんな感覚が、言葉になる前に身体の中で芽生えていました。
その実感が、
人生をどう扱えばいいのかを考える、
一つの手がかりになっていきました。
落ち着かない人生でも、静かに生きるという選択

落ち着かない = 不安定、ではなかった
階段の登り降りを続ける中で、一つはっきりしてきたことがあります。
それは、「落ち着いていない状態」と「不安定な状態」は、
必ずしも同じではない、ということでした。
そうした揺れは相変わらず存在していました。
それでも、以前のように振り回される感じは減っていました。
不安がなくなったわけではありません。
ただ、不安が現れても、
呼吸が乱れきらず、
日常が止まらなくなっていたのです。
それでも、足を置く場所さえ間違えなければ、
一段ずつ上がっていける。
人生も同じで、
落ち着かなくても、壊れずに進める状態はある。
そのことを、身体のほうが先に理解していたように思います。
騒がしい人生と、静かな人生の違い
以前の私は、
前に出ること、広げること、増やすことが、
そのまま前進だと思っていました。
動き続けていないと、
取り残されてしまう気がしていたのです。
けれど、階段の登り降りのような反復に身を置くうちに、
別の生き方があることに気づきました。
それは、外側を大きく変えなくても、
内側の音量を下げていく生き方です。
人生を静かにする、というのは、
何もしないことではありません。
むしろ、毎日やることは変わらない。
ただ、騒がしくならないように扱う、
という選択に近いのだと思います。
そうして初めて、
人生が「続いていくもの」として、
手の届く距離に戻ってきた気がしました。
習慣は「不安を消す」のではなく「扱えるようにする」

不安は、消えないまま残り続ける
落ち着かない人生を受け入れようとしても、
不安そのものが消えるわけではありませんでした。
むしろ、静かに生きようとするほど、
不安の存在がはっきり感じられる場面もありました。
以前は、こうした不安を
「なくすべきもの」「早く処理すべきもの」だと考えていました。
だからこそ、答えを探し、安心材料を集め、
一時的にでも不安が消える状態を求めていたのだと思います。
けれど、階段を登り降りし続ける生活の中で、
一つ分かってきたことがありました。
不安は、消そうとするとかえって輪郭を強める、ということです。
階段と記録が整えていたもの
日々の階段登り降りは、
不安について考える時間を減らしてくれるわけではありません。
むしろ、考えごとは相変わらず頭に浮かびます。
それでも、身体の状態は、少しずつ整っていきました。
そこに、簡単な記録や振り返りを加えると、
さらに変化がはっきりしました。
「今日は重かった」「今日は軽かった」
それだけの言葉でも、一日を区切る感覚が生まれます。
習慣が整えていたのは、出来事そのものではありません。
出来事に反応する速度や強さでした。
不安があっても、
身体が先に落ち着いていれば、
思考は少し遅れてついてきます。
そのわずかな間が、
不安を “扱える範囲” に留めてくれていました。
人生ではなく、人生との距離が整う
不安を感じなくなった自分になりたい、
という願いが薄れていったのも、この頃でした。
不安があるままでも、一日が終わる。
その事実が、
思っていた以上に大きな安心になっていました。
気づけば、不安は相変わらず存在しているのに、
人生全体が不安定だと感じることは減っていました。
何かが解決したわけではありません。
ただ、距離が変わったのです。
以前は、不安と自分の間に隙間がなく、
巻き込まれるように反応していました。
今は、不安が現れても、
一段分、距離を取って眺められる。
習慣は、不安を消す道具ではありませんでした。
不安を感じたままでも、
日常を回せる身体とリズムを育てるものだったのです。
人生を整えようとするより、
人生との距離感を整える。
そのほうが、無理なく、長く続きました。
まとめ:人生は落ち着かない。だから今日も一段、静かに

人生が落ち着く日を待たない、という考え方は、
何かを諦めることではありませんでした。
むしろ、ずっと仮置きにしていた今日を、
ようやく手元に戻す感覚に近かったように思います。
落ち着かないことは、相変わらず起こります。
不安も、迷いも、疲れも、なくなりません。
ただ、それらが現れたときに、
人生全体が崩れてしまう感じは、以前より減りました。
階段は、明日も同じ形でそこにあります。
段数も、高さも、変わらない。
登ったからといって、何かが完成するわけでもありません。
それでも、今日一段登ったという事実だけは、
静かに身体に残ります。
人生も、きっとそれに近いのだと思います。
落ち着こうとしないことで、
かえって力が抜けました。
すべてを整えなくても、
今日を壊さずに終えられれば、それで十分だと
思えるようになったからです。
それだけで、
人生はちゃんと、続いていきます。
早く進まなくても、
大きな変化がなくても構いません。
今日の身体でいつもの階段に足を置けたなら、
それは十分に、生きた一日だったのだと思います。
おことわり
この記事は、筆者個人の生活体験をもとに書かれたものです。
特定の方法や考え方を勧めるものではありません。
読まれた方それぞれの生活の中で、必要な部分だけを持ち帰っていただければ幸いです。
本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。
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