私は変わったのではない。“戻ってきただけ” だった:階段の登り降りのように、静かに積み上げた時間が、いま意味を持ちはじめた − じみ・もくもく・好きなことが、人生の後半で効き始めた話

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目次

最近、気づいた「楽しさの正体」

気がつくと、派手な予定や忙しさが少しずつ減っていました。

朝の静かな時間にコーヒーを淹れ、ノートを開く。
それだけのことが、今は不思議と心地よく感じます

昔の自分なら、「もっと頑張らなきゃ」「何かを成し遂げなきゃ」と思っていたはずです。

けれど最近は、「じみにもくもく続ける時間」こそが一番落ち着きます
そこには焦りがなく、むしろ何かを取り戻しているような安堵があります。

ふと、昔のブログを読み返してみました。
10年以上前、誰に読まれるわけでもない日記のような投稿。

そこにも、「朝が気持ちいい」「書くのが好きだ」と書かれていました。
評価も反応もなかった頃の言葉が、今読むとやけに温かく感じます。

あの頃の私は、まだ何者でもありませんでした。
けれど、あの何気ない時間の中にこそ「自分らしさの原型」があったのかもしれません。

今になって思うのは、私は変わったのではなく、ただ “戻ってきただけ” なのだということです。

気づけば、あの頃にやっていたことの多くが、今も形を変えて残っています。
運動、ブログ、少しの勉強。

どれも派手な成果にはつながりませんでしたが、やめることはありませんでした。
その小さな習慣が、今の私を静かに支えてくれています。

年を重ねると、「変わる」ことよりも「馴染む」ことのほうが大切になるように思います。
そして、“昔の自分” の中に、案外たくさんの答えが隠れているのだと、最近ようやくわかってきました。

最初から、そうだったのかもしれない

何もない頃に書いていた言葉

昔のブログを読み返していて、思わず手が止まりました。
そこには、今の私とほとんど変わらないことが書かれていたのです。
「朝の光がきれい」「今日は少し体が軽い」「何も起きないけれど、穏やかな日だった」―。

当時は、読者もほとんどいませんでした。
コメント欄も静かで、アクセス数もほとんどゼロに近い。

それでも、私は毎朝その日感じたことを記録していました。
「誰かに伝えよう」と思っていたわけではなく、ただ「書くこと」自体が楽しかったのだと思います。

あのときの文章には、いま読み返しても不思議な明るさがあります。
何も得ていない時期だからこそ、飾らずに書けていたのかもしれません。

あの無名の時間にこそ、いちばん “私らしさ” が詰まっていたように感じます。

「正当化」ではなく「確認」

時間が経つと、人は過去を都合よく書き換えてしまいがちです。
だから、今この感覚を「後づけの自己正当化」と言われたら、反論できない部分もあります。

けれど、昔の自分の言葉を読むと、それが “作られた回想” ではないことがはっきりとわかるのです。

「早く評価されたい」「何かを成し遂げたい」という焦りは、確かにありました。

それでも、その裏には常に「好きなことを続けたい」という素朴な願いがありました。
あの頃の私は、無意識のうちに “続けること” そのものを楽しんでいたのだと思います。

当時は気づいていませんでしたが、評価の有無に関係なく続けてしまうもの」こそが、自分にとって本当に大切なことだったのかもしれません。

一貫していたのは「小さな楽しさ」

今振り返ると、どんな時期でも私の中心にあったのは、“小さな楽しさ” でした。
結果が出ない時期でも、ブログの更新ボタンを押す瞬間は少しうれしかったのを覚えています。

早起きして誰もいない街を歩くとき、空気の冷たさに心がすっと整いました。

派手なエピソードは何ひとつありません。
けれど、その地味な繰り返しが、今の私の支えになっています。

そしてようやく気づいたのです。
「私は変わったのではなく、最初からずっと同じ方向を向いていたのだ」と。

若い頃は “合わなかった” だけ

ゆっくりとした歩みの中の発見

求められる速さに、息が合わなかった

若い頃の私は、いつも少し息苦しさを感じていました。
周囲は次々と成果を上げ、評価され、前へ進んでいく。
私も同じように頑張っていたつもりでしたが、どうしてもそのスピードに合わせられませんでした。

仕事でも、成果を「わかりやすく」示すことが求められました。
数字、タイトル、結果。

けれど私は、過程や積み重ねのほうに心を奪われてしまうタイプでした。

そのせいで「何をしたいのか分からない」と言われたり、
「もっと目立て」と助言されたりすることもありました。

自分を責めた時期もありました。
「私は努力が足りないのか」「向いていないのか」と何度も考えました。

けれど今思えば、ただ “合っていなかった” だけなのだと思います。

私のペースは、あの頃の世界には少し遅すぎたのです。

無理に外向きの自分を演じていた

当時は、「速く、強く、分かりやすく」が当たり前の時代でした。
仕事でも趣味でも、「発信すること」や「成果を見せること」が評価の中心にありました。

私もその流れに合わせようとして、無理に外向きの自分を作っていました。

SNSでは明るい言葉を選び、
「前向きでいよう」と自分に言い聞かせるように書いていました。

けれど、投稿ボタンを押したあと、ふと心が静まり返るような空白が残りました。

誰かに見せる自分” を演じるほど、
本来の自分が奥に押し込められていくような感覚があったのです。

そのころはまだ、地味に続ける」ことの価値を知らなかったのだと思います。

続けるより、変えること。
積み上げるより、結果を出すこと。

それが良いと信じて疑いませんでした。

あの頃の「違和感」が、いまを作っている

けれど今振り返ると、あの頃に感じていた違和感こそが、
今の自分を支えているように思います。

人より遅くても、成果が小さくても、
心の奥では「このペースが自分には合っている」とわかっていたのかもしれません。

若い頃に無理していた時間も、今思えば必要な寄り道でした。
あの不一致の中で、自分の速度や心地よさの境界線を少しずつ見つけていったのです。

「合わなかった」のではなく、
まだ、早すぎた」のだと思えるようになったのは、最近のことです。

いまようやく、当時の自分のままのペースで歩けるようになりました。

習慣だけが残った

習慣の形成

気づけば、やめなかったものがあった

振り返ってみると、どんな時期でも手放さなかったことがいくつかあります。
朝のストレッチ、ブログの更新、通勤の途中で寄る小さな公園。

忙しさの波に飲まれながらも、それだけは続けていました

理由を聞かれても、明確な答えはありません。
続ける意味を考えたこともなく、
今日もやらないと落ち着かない」という感覚に近かったと思います。

成果を求めていた頃は、
「こんな小さなことを続けても意味がないのでは」と感じる日もありました。

けれど今思えば、あの習慣たちは “結果を出すための努力” ではなく、
自分の輪郭を保つための行為” だったのかもしれません。

は、思っている以上に「形」によって守られている。
その形が、私にとっては小さな習慣だったのだと思います。

生活の中に、静かな支柱がある

ブログを続けてきたことも、その一つです。
一時は更新が義務のように感じていた時期もありましたが、
今では「書かないと気持ちが落ち着かない」と思うようになりました。

書くことで、心の中にたまったものが少しずつ整っていきます。

言葉を並べているうちに、
自分でも気づいていなかった感情が見えてくることがあります。

それは、他人に見せるためではなく、自分の中を整理するための行為
この静かな繰り返しが、どんなアドバイスよりも自分を支えてくれていました。

運動も同じです。
派手なトレーニングではなく、階段を使う、姿勢を整える
そんな “地味な動き” が日々の調子を整えてくれます。

特別なことは何もしていません。
けれど、その積み重ね「変わらない自分」を作っているように思います。

続けることが、私の形になった

長く続けていると、途中でやめようと思う瞬間は何度もありました。
成果が見えず、意味があるのかと疑う日もありました。

それでも、なぜか完全にやめることはできませんでした。

それは「努力」ではなく、「呼吸」のようなものになっていたのだと思います。
たとえ一日休んでも、また自然に戻ってくる

意志で続けているというより、
「戻る場所がここにある」という安心感に近い感覚です。

気づけば、私の生活の中には派手なものは何一つ残っていません
けれど、残ったものほど深く根を張っていることに気づきます。

それが、これまで積み重ねてきた “静かな習慣 なのです。

変わったのではなく、戻った

自分を作り直したのではなく、取り戻した

あるとき、「変わったね」と言われることが増えました。
穏やかになった、落ち着いた、前より柔らかくなった ―。

その言葉を素直に受け取れないのは、
自分では「変わった」という感覚がないからです。

むしろ私は、ようやく “元の自分” に戻れた気がしています。

若い頃に無理して背伸びしていた自分、
速さや競争に合わせようとしていた自分。

その殻が静かに剥がれて、
中から 本来のリズム” が顔を出したような感覚があります。

変わったのではなく、取り戻した。
そう思うと、いまの静けさにも自然と納得がいきます。

噛み合う瞬間が、ある日ふと訪れる

人生のある時点で、
それまで合わなかったものが急にしっくりくる瞬間があります。

たとえば、以前は退屈に感じていた朝の時間が、
今では一日の中でいちばん好きな時間になりました。

焦らずに過ごすこと、
誰にも見せない努力を積み重ねること。

かつては “遅い” とか “地味だ” と言われた行動が、
今の生活ではむしろ自然にフィットしています。

あの頃は「自分は変わらなければ」と思っていましたが、
本当は “世界のほうが追いついてきた” のかもしれません。

時間の流れが穏やかになったのではなく、
自分の歩幅がようやく合ってきただけなのだと思います。

「戻る」ことで、前に進める

若い頃は「変わること」が前進だと思っていました。
でも今は、「戻ること」もまた前進なのだと感じます。

本来の自分に戻ることで、
ようやく無理のない力の出し方ができるようになりました。

それは諦めや妥協ではなく、
長い時間をかけて見つけた自分の “速度” なのだと思います。

周囲と比べず、自分のリズムで歩くこと。
それが今の私にとって、いちばん自然な生き方です。

こうして静かに日々を積み重ねていると、
あの頃の自分に「大丈夫」と声をかけてあげたくなります。

焦らなくていい、そのままでいい ―。
ずっと続けてきたことが、ちゃんと今につながっているからです。

じみな人は、遅れて強くなる

静かな人ほど、長く続く

世の中には、すぐに結果を出せる人がたくさんいます。
努力が形になりやすい人、注目を集めるのが得意な人。
昔の私は、そういう人たちを羨ましく思っていました。

でも今は、少し違う視点で見られるようになりました。

派手な花は早く咲くけれど、長くは持たないことがあります。
一方で、静かに根を張ってきた人は、時間とともに強くなっていく

それは、他人には見えないところで、長い時間をかけて積み上げてきた人だけが持つ “深さ” です。
その静けさの中に、確かな強さがあるのだと思います。

続いているなら、それが適性

「自分には才能がないのでは」と感じるとき、
私はいつも “続けているかどうか” を見つめるようにしています。
どんなに小さなことでも、続けているなら、それはもう自分に合っている証拠です。

成果や評価がすぐに見えなくてもかまいません。
長く続けていることには、必ず意味があります

むしろ、他人の評価よりも “やめられない理由” のほうがずっと確かです。

やめずに積み重ねた時間は、
表に出るよりも前に、自分の中で静かに形をつくっていきます。

それがある日ふと、
「自分らしく生きられている」という感覚につながるのだと思います。

遅れて効いてくる強さ

長い間、地味に続けてきたことは、すぐには花開かないかもしれません。
けれど、時間が経つほどに、その基礎が効いてきます。

焦って咲かせる必要はありません。
根を深く張った分だけ、静かに長く、しなやかに生きていけるのです。

もし今、目に見える成果がなくても、
続いている」ことそのものが、すでに力になっています。

変わる必要はありません。
いまの自分のまま、静かに歩みを重ねていけばいい

“じみな人” は、遅れて強くなる ―。
それは、時間を味方につけられる人の特権だと思います。

おことわり

本記事は筆者の個人的な体験・心境をもとに構成したエッセイです。

健康・生活習慣・心理面に関する内容は、特定の方法を推奨するものではありません。

ご自身のペースで読み取り、ご自身の状況に合わせてお受け取りください。

本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。

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この記事を書いた人

“じみ” に “もくもく” と “すきなこと” を “継続する” ことが最近の楽しみです。

『人生を自由に楽しく』が目標です。

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