幸せを目指した記憶はないけれど、生活は壊れていなかった
幸せとは何か。
そう聞かれて、真剣に考えた記憶はあまりありません。
目標を立てて追いかけたわけでもなく、
「ここまで来たら幸せだ」と線を引いたこともありませんでした。
それでも生活を振り返ってみると、不思議と続いています。
大きく崩れることもなく、致命的に壊れることもなく、
今日も同じように一日が始まっています。
判断基準は、ずっと単純でした。
増えたか、達成したかではなく、今の生活は壊れていないか。
そうした点検だけを、習慣のように繰り返してきた気がします。
階段の登り降りも、その一つでした。
健康のために始めたはずなのに、
いつの間にか「やらなければならないこと」ではなくなっていました。
気づけば、考える前に身体が動いています。
終わったあとに大きな達成感があるわけでもありません。
ただ、生活の一部として、そこにあります。
そんなとき、カール・ユングの「幸福の条件」という考え方を知りました。
幸福を構成するいくつかの要素 ―
心身の健康、人間関係、自然との関わり、生活基盤、そして人生観。
読んだ瞬間にあったのは、前向きな高揚感ではありませんでした。
それよりも、静かな一致のような感覚でした。
「なるほど」という理解ではなく、
「あ、これを点検してきたのかもしれない」という感覚です。
この記事は、幸福を増やすための話ではありません。
成功を証明するものでも、理想像を提示するものでもありません。
ただ、階段の登り降りのような小さな行動を手がかりに、
今の生活がどの位置にあるのかを、
ユングの幸福論を使って静かに自己点検してみる試みです。
もしよければ、読みながら考えてみてください。
あなたの生活は、今 ―
どこが壊れていませんか?
心身の健康は、努力目標ではなく「生活の一部」になっていました

階段の登り降りが、義務でなくなった日
階段の登り降りは、もともと「健康のため・減量のため」に始めたものでした。
運動不足を解消したい、体力を落としたくない。
きっかけは、ごく一般的な動機だったと思います。
最初の頃は、意識的でした。
今日は何回登ったか、少し息が上がったか。
「ちゃんとやれているか」を、頭で確認していました。
けれど、ある時から様子が変わります。
気がつくと、階段を前にして迷わなくなっていました。
やるか、やらないかを考える前に、身体が動いています。
そこに達成感はありません。
「今日もやり切った」という満足感も、ほとんどない。
ただ、歯を磨くのと同じように、
生活の流れの中に自然と組み込まれているだけです。
その状態になって初めて、
これはもう「努力」ではないのだと気づきました。
心拍・呼吸・感覚に意識が戻ってくる
階段を登り降りしているとき、
数字や記録を気にすることはほとんどありません。
代わりに意識に上ってくるのは、
呼吸のリズムや、心拍の変化、
足裏に伝わる感覚です。
少し息が上がっている。
でも、苦しさはない。
今なら、もう一段登れるし、
ここでやめても問題はない。
そうした微妙な感覚を、
身体がその場で判断しているような状態になります。
このとき、頭で何かを考えている感覚はありません。
かといって、ぼんやりしているわけでもない。
注意は散らず、狭すぎもしない。
いわば、動きの中に意識が収まっている感覚です。
後から振り返ると、
これが自分にとっての「ちょうどいい負荷」なのだと分かります。
「やりすぎると壊れる」と身体が知っている
無理をすれば、もう少し追い込むことはできます。
階段を何往復もしたり、
スピードを上げたりすることも可能です。
けれど、そうしない。
なぜなら、やりすぎると壊れることを、
頭ではなく、身体が知っているからです。
一時的に頑張ることよりも、
明日も同じように動けることのほうが大事だと、
経験として分かっています。
この感覚は、意志の強さとは関係ありません。
自制しているというより、
自然にブレーキがかかっている状態です。
心身の健康が、
「目標」や「管理対象」ではなく、
生活そのものの一部になっている。
ユングの幸福の条件でいう
「心身の健康」とは、
こうした状態を指すのかもしれない。
そんなふうに、後から言葉が追いついてきました。
人間関係は、少ないけれど「安心して静か」でした

「向いていない」と認めたことで、関係は壊れなくなった
人間関係についても、
以前は「もっと広げたほうがいいのではないか」と
考えた時期がありました。
そうした言葉を、外から何度も見聞きしてきたからです。
けれど、実際にやってみると分かりました。
多人数の場や、常に人目にさらされる環境は、
自分にはあまり向いていません。
ただ、続かないのです。
数回は頑張れても、
どこかで消耗している自分がいます。
気づくと、生活のリズムが乱れ、
身体の感覚も鈍くなっていきます。
そこで、ある時から考え方を変えました。
「社交的になろう」とするのをやめ、
向いていないことは、向いていないままにしておく
という選択をしたのです。
すると、人間関係は一気に減りました。
頻繁に連絡を取る人は限られ、
関わる範囲も、自然と小さくなっていきました。
ですが、その分、関係は静かになりました。
無理に話題を作る必要もなく、
期待されている役割を演じることもありません。
家族との関係も同じです。
理想的であろうとするのではなく、
現実的に続く距離感を探すようになりました。
そうやって調整していくうちに、
人間関係は「頑張る対象」ではなくなりました。
壊さないために、整えておくもの。
そのくらいの位置づけに落ち着いています。
ユングの幸福の条件の一つに、
「良好な人間関係」があります。
それは、にぎやかであることや、
人に囲まれていることを意味しているわけではない。
自分にとっては、
少なくても、安心して静かであること。
その状態が、結果として長く続いている。
今は、そう受け止めています。
自然や日常の美しさに、気づいてしまう生活

派手ではないけれど、確実に残る感覚
人間関係が静かになると、
代わりに、周囲の環境が目に入るようになりました。
特別な自然ではありません。
山に登るわけでも、絶景を探しに行くわけでもない。
そうした、日常の中の変化です。
以前なら、気にも留めなかったものばかりです。
目に入っていても、通り過ぎていた。
道端にあるけど誰も目に止めない、石ころのように。
けれど今は、立ち止まらずとも、
「あ、変わっている」と分かります。
それは感動とは少し違います。
心が大きく揺さぶられるわけでも、
記憶に強く刻まれる出来事でもありません。
ただ、確実に残ります。
一日の終わりに、
「今日も何もなかった」とは感じなくなる。
小さな感覚が、積み重なっている実感だけが残ります。
書くことで、感覚が生活に根づいていく
この感覚が定着した理由の一つに、
書く習慣があると思っています。
ブログに書く内容は、
大きな出来事や、特別な発見ではありません。
あとから見れば、取るに足らない記録です。
けれど、書こうとすると、
一度立ち止まって、言葉を探すことになります。
「今日は何が違ったのか」
「なぜ、それが残っているのか」
その作業を通して、
感覚が、ただの通過点で終わらなくなります。
意識の表面に引き上げられ、
生活の一部として組み込まれていく。
ユングの幸福の条件の一つに、
「自然との関係」があります。
それは、自然に親しむ活動を
積極的に行うことではないのかもしれません。
日常の中にある変化に気づき、
それを無理に評価せず、
そのまま受け取れる状態でいること。
今の自分にとっては、
それが自然との関係なのだと思います。
ちょうどいい生活水準と、壊れない働き方

「もっと」よりも、「続くかどうか」を基準にしてきました
お金や働き方についても、
明確な目標を掲げてきたわけではありません。
何年でいくら稼ぐ、といった計画よりも、
常に気にしていたのは、
この生活は続くかどうかという一点でした。
収入が増えても、
生活リズムが崩れたり、
身体の感覚が鈍ったりするなら、
それは自分にとっては過剰です。
逆に、派手さはなくても、
それで十分だと感じていました。
生活水準を上げることよりも、
生活の形を固定しすぎないこと。
そのほうが、長い目で見て壊れにくい。
経験的に、そう思っています。
副業やブログを、競争にしなかった理由
副業やブログも、
やろうと思えば、競争の土俵に乗ることはできます。
成果を比較し、数字を追い、
成長をアピールすることも可能です。
けれど、そうはしませんでした。
理由は単純で、
それをやると生活が不安定になるからです。
数字に一喜一憂し始めると、
書く内容が変わります。
更新のペースが乱れ、
頭の中が常に外向きになります。
それは、階段の登り降りで
無理に回数を増やすのと、よく似ています。
一時的には「やっている感」は出ますが、
長くは続きません。
副業やブログは、
生活を支える要素の一つではありますが、
生活の主役にはしない。
そう決めたことで、
働き方は驚くほど静かになりました。
ユングの幸福の条件には、
「適切な生活条件」という項目があります。
それは、高い水準を目指すことではなく、
不安定にならない位置を知っていること
なのではないか。
今は、そんなふうに受け取っています。
人生を支えている「自分なりの哲学」

Gradatim(漸進)という考え方
自分の生活を振り返ったとき、
一貫していた考え方があるとすれば、
それは「Gradatim(漸進)」という姿勢だったように思います。
運動も、働き方も、人間関係も、
劇的に切り替えた記憶はほとんどありません。
やめるときも、始めるときも、
段差をできるだけ低くしてきました。
階段の登り降りも、同じです。
負荷を一気に上げることはせず、
派手さはありませんが、
このやり方は、壊れにくい。
少なくとも、自分にとってはそうでした。
複利・時間・健康を、同じ軸で見ている
この漸進的な考え方は、
分野ごとに分かれているわけではありません。
健康、時間、習慣、そしてお金。
どれも、同じ軸で見ています。
短期間で大きな成果を出すより、
複利という言葉は、
お金の文脈で使われることが多いですが、
実際には、生活全体に当てはまる概念だと思っています。
少しずつでも、良い状態が続けば、
結果として大きな差になる。
逆に、どこかで無理をすると、
一気に巻き戻される。
だからこそ、
「増やす」よりも「減らさない」。
この感覚を、ずっと優先してきました。
幸福を最大化しなかったから、減らなかった
振り返ってみると、
幸福を最大化しようとしたことは
ほとんどなかったように思います。
そうした方向に、
意識的に舵を切った覚えはありません。
その代わりに、
今あるものを壊さないこと。
生活の中で、
不自然に張りつめている部分を
少しずつ緩めていくこと。
結果として、
幸福は増えもしませんでしたが、
減りもしませんでした。
ユングの幸福論を読んだとき、強く印象に残ったのは、
幸福が「到達点」ではなく、
バランスの状態として語られていたことです。
心身、人間関係、自然、生活条件、人生観。
どれか一つが突出するのではなく、
どれもが、壊れない範囲に収まっている。
自分がやってきたことは、
幸福を手に入れる努力というより、
そのバランスを崩さないための調整だったのかもしれません。
まとめ:幸せを目指さなかった先に、壊れにくい生活がありました

ここまで振り返ってみて、
改めて思うのは、
幸せを目指してきた実感がほとんどない、ということです。
そういう手応えは、あまりありません。
それでも、生活は続いています。
大きく崩れることもなく、
無理を重ねて壊れることもなく、
今日も同じように階段を登り降りしています。
振り返ってみれば、自分がしてきたのは、
幸福を増やす努力ではなく、
壊れない位置を探し続けることでした。
その都度、少しずつ調整する。
Gradatim(漸進)的に、生活の段差を低くしていく。
結果として、
減らない状態に落ち着いていた。
それだけのことだったのだと思います。
カール・ユングの幸福の条件は、
何かを手に入れるための指標ではなく、
今の生活を点検するための視点でした。
この記事で書いてきたことは、
特別な方法でも、
再現性のあるノウハウでもありません。
ただ、もし今、
「何か足りない気がする」
「まだ満たされていない気がする」
そう感じているなら、
一度立ち止まって、
問いを変えてみてもいいのかもしれません。
増えていないか、ではなく。
達成しているか、でもなく。
その問いに、
いくつか静かに答えられるなら、
もうすでに、
壊れにくい位置には立っているのだと思います。
おことわり
この記事は、カール・ユングの幸福論を解説したものではありません。
また、幸福になるための方法や、生活を改善するための正解を提示するものでもありません。
ここに書いているのは、一人の生活を、あとから振り返ってみた記録です。
階段の登り降りや、働き方、人との距離感といった、ごく個人的な体験を、ユングの「幸福の条件」という視点を借りて静かに点検してみただけのものです。
同じことをすれば、同じような状態になるとは限りません。
生活の形も、適切な距離も、人によって異なるはずです。
もし読みながら、「これは自分には合わないな」と感じる部分があれば、その違和感も含めて、ご自身の生活を考える材料にしていただければと思います。
本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。
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