便利さは、身体の代わりに重力を引き受けてくれる仕組みです。
その分だけ、姿勢を保つ「抗重力筋」は静かに眠っていきます。
私は11年前、便利さをひとつだけ手放しました。
階段です。
駅のエスカレーターには、いつも列ができています。
その横の階段は、たいてい空いています。
列に並ぶ人が間違っているわけではありません。
疲れている日もあれば、荷物の重い日もあります。
私も、40歳を過ぎるまでは列の側にいました。
ただ、あの空いている階段を11年選び続けてきて、
ひとつだけ分かったことがあります。
ということです。
この記事では、その値札の正体を「抗重力筋」という言葉から辿ります。
宇宙飛行士の脚と、
世界でいちばん座っている国の話を経由して、
最後に、私がなぜ階段だけを手放さなかったのかを書きます。
便利さは、重力を代わりに引き受けてくれる
どれも便利で、どれも私たちの生活を支えています。
この4つに共通していることがあります。
という点です。
階を移動するとき、本来なら脚が身体を持ち上げます。
エレベーターは、その仕事を丸ごと肩代わりします。
座っているとき、本来なら背中と脚が身体を支えます。
椅子の背もたれは、その仕事の大半を受け持ちます。
私たちは「便利=得」と、ほとんど疑わずに受け取っています。
どれも本当です。
ただ、身体の側から見た帳簿には、別の欄があります。
そこに書かれているのが、筋力低下です。
それも、鍛えていないから落ちるのではありません。
抗重力筋という名前を知る

寝ているとき以外、休まない筋肉
抗重力筋(こうじゅうりょくきん)という言葉があります。
重力に抗って姿勢を保つ筋肉の総称です。
代表的なものは、
身体の前後に配置され、協力しながらバランスを取っています。
特徴は、意識しなくても働いていることです。
寝ているとき以外、この筋肉たちは休みません。
だからこそ、便利さの影響を最初に受けます。
40代は、曲がり角に立っている
筋肉の量が年齢とともに減っていくことは、よく知られています。
私が気になったのは、その減り方が「自覚しにくい」ことです。
国立長寿医療研究センターが2021年に発表した研究では、
中高年520人の太ももをCTで調べ、
大腿四頭筋の量と質が年齢とともに低下し、とくに男性で高齢になるほど落ち方が急になることを示しています。
数字は静かに減っていきます。
けれど、日常で「太ももが減った」と感じる場面はほとんどありません。
エスカレーターに乗れば、減った分は分からないままです。
40代から50代を「脚力の曲がり角」と呼ぶ言い方があります。
私は、その表現に半分だけ頷きます。
曲がり角なのは事実ですが、
曲がったことに気づけるかどうかは、
その人が日々、重力とどう付き合っているかで決まるからです。
出典:日本人の年齢・性別による大腿四頭筋の筋肉量と質の違いを明らかにしました
宇宙飛行士の脚が教えてくれること

重力がなくなると、筋肉に何が起きるのか。
これを最も極端な形で示しているのが、宇宙飛行士です。
JAXAの宇宙医学の専門家である大島博氏は、
宇宙では姿勢を維持する抗重力筋が1日あたり1%くらい細くなると説明しています。
6か月の長期滞在後には、筋力が10〜20%ほど低下していたそうです。
宇宙飛行士は、毎日長い時間を運動に充てています。
専用の器具で走り、漕ぎ、重りを引きます。
それでも、筋力は落ちるのです。
運動器具とプログラムが改良されて、低下は5〜15%に軽減されました。
ゼロにはなっていません。
ここに、私は便利さの話を重ねて読みました。
無重力とは、重力を完全に肩代わりされた状態です。
言い換えれば、究極の便利さです。
そこでは、鍛えても追いつかないほどの速さで、抗重力筋が眠ります。
筋肉を保つには、どれだけの重力が要るのか
2026年3月、JAXAとNASAの共同研究が発表されました。
国際宇宙ステーションの「きぼう」で、
微小重力、0.33G、0.67G、1Gの4つの重力環境でマウスを約1か月飼育し、
姿勢保持に関わるヒラメ筋を調べたものです。
結果は、筋肉の量だけなら0.33Gでも大きくは減らない。
けれど、筋肉の機能と質を保つには0.67Gが必要だった、というものでした。
私はこの数字を、地上の生活に置き換えて考えました。
私たちは1Gの星に住んでいます。
それでも、エレベーターと椅子と車で重力を肩代わりし続けたら、
身体が受け取っている重力は、実質いくらになっているのでしょうか。
それを測る機械はありません。
ただ、階段を選ぶ人と選ばない人で、
脚が受け取る重力の総量が違うことだけは、確かです。
出典:宇宙医学からみたリハビリ
JAXA–NASA共同低重力ミッションが解き明かす、生体応答における重力依存性
日本人は、世界でいちばん座っている

宇宙は極端な例です。
けれど、地上にも「重力を任せている時間」の統計があります。
座っている時間です。
シドニー大学などの研究チームが世界20か国を比較した調査で、
日本人の平日の座位時間は約7時間。
20か国のなかで最も長い、という結果でした。
スポーツ庁もこの数字を引いて、座りすぎへの注意を呼びかけています。
この結果を、日本人が怠け者だからだとは私は思いません。
便利さの完成度が高い国ほど、
重力に抗う時間は自然に短くなる。
これは個人の意志の問題ではなく、設計の問題です。
だから私は「座るな」とは言いたいわけではありません。
私自身、医療の現場で働く日中の多くを、
椅子と立ち仕事の往復で過ごしています。
ただ、設計の問題であるなら、
設計で応えられます。
それだけで、帳簿の欄は変わります。
私は便利さを、ひとつだけ手放した

私が階段を選ぶようになったのは、2015年の2月です。
健診の数字が悪く、保健師さんに
「少し運動を取り入れてみましょう」と言われた帰り道でした。
廊下でエレベーターを待ちながら、
その横にある階段を見上げて、
「ここを登ればいいのでは」と思ったのが始まりです。
最初は数分で息が上がりました。
10日目にはふくらはぎが張って、
痩せるどころか「太くなったのでは」と不安になりました。
それでも続いたのは、
意志が強かったからではありません。
やめる理由より、
10日分がもったいないという気持ちが、少しだけ勝ったからです。
あれから11年、
私はジムに入っていません。
器具も増やしていません。
やったことは、それだけでした。
いま振り返ると、
私は「抗重力筋を鍛えよう」と思ったことが一度もありません。
その言葉を知ったのも、ずっと後のことです。
筋肉の側から見れば、
それが結果的に手入れになっていたのだと思います。
数字はあとから、ゆっくり動きました。
先に変わったのは、階段を降りるときの脚の安定感でした。
とくに下りは、抗重力筋にとって特別な時間です。
一段ごとに着地の衝撃を受け止め、
筋肉は伸びながら踏ん張ります。
この「降りる」動作については、
階段の登り降りで下半身が変わる|降りる動作と筋肉・EPOC効果の科学 に詳しく書いています。

全部やめなくていい。60点でいい

ここまで読んで、便利さを敵のように感じた方がいたら、
それは私の書き方が悪かったのだと思います。
私は今も車に乗り、
椅子に座り、
疲れた日はエスカレーターに乗ります。
全部やめようとした人ほど、3か月で元に戻ることを、
私は三日坊主だった頃の自分でよく知っています。
「100点ではなく60点で合格」という言い方があります。
続けることに関しては、私もこの考えに賭けています。
100点を狙う設計は、崩れた日に全部が崩れます。
60点の設計は、崩れた日があっても、翌日また60点に戻れます。
だから提案は、ひとつだけです。
どれを選ぶかは、その人の生活が決めることです。
重力を、自分に戻す場面の例
参考までに、私が「ひとつだけ」の候補として思いつく場面を挙げておきます。
どれも器具は要らず、決意もほとんど要りません。
- 職場や駅で、1フロア分だけ階段を使う(全フロアでなくていい)
- 駐車場で、入口から遠い区画に停める
- 電話やオンライン会議の間は、立ったまま話す
- 座り仕事が1時間続いたら、水を取りに歩く
- エスカレーターに乗るときも、右側を歩いて登る日を混ぜる
大事なのは、どれを選ぶかより「ひとつに決める」ことだと感じています。
私はエレベーターを選ばないと決めただけで、
他は何も変えませんでした。
それでも11年分が、脚に積み上がりました。
階段を選ぶなら、膝と関節への配慮は先に知っておいたほうが安心です。
階段昇降を安全に|関節負担を軽減する7つのコツ にまとめています。

筋肉の質やサルコペニアの予防という実践面は、
階段昇降で筋質を改善|40代からの若返りと代謝アップ習慣 と
階段運動で衰えない脚をつくる に、それぞれ書いています。


この記事は、その手前にある「なぜ」の話でした。
まとめ:便利さは選べる。抗うことも、選べる

便利さは、重力を代わりに引き受けてくれる仕組みです。
そのおかげで、私たちの生活は楽になりました。
その代わりに、抗重力筋は少しずつ眠っていきます。
どちらも、重力を任せた時間の長さの話です。
私は11年前、便利さをひとつだけ手放しました。
鍛えるためではなく、
たぶん、健診の数字が怖かっただけです。
けれどその選択は、知らないうちに、
日々、重力を自分の脚で引き受ける時間になっていました。
便利さは選べます。
そして、抗うことも、同じように選べます。
日々の小さな記録は、noteのマガジンにも静かに綴っています。
おことわり
本記事は情報提供を目的としており、特定の効果・効能を保証するものではありません。
健康に関するご判断は、必ず医師・専門家にご相談ください。
本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。

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