ズワイガニ食べ放題で気づいた、階段の登り降りが続く理由:40代が選ぶ「満腹ではなく蓄積」

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ズワイガニ食べ放題の帰りに感じた違和感

先日、少し遠出して、ズワイガニの食べ放題に行きました。

行きの車の中は、妙に浮き立っていました。

「何杯食べるか」
「蟹味噌は外せない」
「締めの雑炊まで余裕を残しておきたい」。

他愛もない話が続きました。
目的地に向かう時間は、
なぜか食事そのものより楽しかった気がします。

店に着けば、予想通りの豪華さでした。
ズワイガニが所狭しと並び、蒸し器の湯気が天井まで漂っていました。

最初の一杯は確かに美味しかったです。
身がぎっしりと詰まっていて、塩味がちょうどよく、
箸が止まりませんでした。

ただ、三杯目あたりから、何かが静かに変わり始めました。

食べているのに、少し飽きてくる。
「まだ食べられる」という義務感のようなものが湧いてきて、
元値を取り戻そうとしている自分に気づきます。

食べ放題という設計が、そういう心理を自然に呼び起こします。

帰りの車は、静かでした。

満腹でした。それは間違いありません。
胃は確かに満たされていました。

でも、どこかに小さな空洞があるような感覚が残っていました。
「楽しかった」とは言えました。
でも「満たされた」かと問われると、少し言葉に詰まりました。

その夜、自宅の階段を登りながら、ふと思いました。

この感覚と、毎日の階段の登り降り習慣は、まるで対照的だ、と。

階段を一段一段登るとき、特別な高揚感はありません
蟹の前に感じたような期待もありません。

でも、登り切ったあとに残るものが、あの帰り道とは違います。

漠然とした充足感というか、
何かが静かに積み上がっているような感覚があります。

その違いが何なのか、少し時間をかけて考えてみることにしました。

そしてその答えは、「階段の登り降りがなぜ続くのか」という疑問と、
静かにつながっていきました。

なぜ人は「満足したのに満たされない」のか

「満足」と「充足」は、似ているようで少しずれています。

満足は、欲求が解消された状態です。

腹が減っていたから食べた、
喉が渇いていたから飲んだ。

欲求と充填が一致したとき、満足が生まれます。

それは瞬間的で、確かで、わかりやすいものです。

充足は、少し違います。
欲求の解消ではなく、
自分が何かに向かって動いているという感覚に近いです。

方向性がある、という言い方でもいいかもしれません。

人間の行動には、
欲求を「消費」するパターンと、
何かを「積み上げる」パターンがあります。

食べ放題は前者の典型です。
欲求(蟹を食べたい)があって、それを満たして終わります。

満たした瞬間に、欲求は消えます。
消えたあとに残るのは、満腹感と、少しの虚無です。

面白いのは、向かっている最中のほうが充実感があることです。

行きの車の話に戻ります。

あの時間、みんなの顔が生き生きしていました。
「何を食べようか」という状態、
つまり「まだ手に入れていない」状態のほうが、実は豊かだったかもしれません。

どこかで読んだ話ですが、料理は火を通しているときの香りがいちばんいい、
という感覚を持つ人が多いそうです。

食べるより、待つほうが豊かな瞬間がある。

これは欠乏の話ではなく、「向かっている」という状態の価値の話です。

「求めている自分」には価値がある。

これは精神論ではなく、神経科学的な観点からも裏付けがあります。

ドーパミン(意欲や快感に関わる神経伝達物質)は「報酬を得た瞬間」より「報酬を期待している瞬間」に多く分泌されると言われています。

つまり人の脳は、手に入れることよりも、
向かうことのほうに反応しやすい構造になっています。

食べ放題の帰り道が静かだったのは、「向かう」ものがなくなったからかもしれません。

出典:A Neural Substrate of Prediction and Reward
Dopamine reward prediction error coding

では、毎日の階段の登り降りはどうでしょうか。

階段の登り降りが続く理由はここにある

階段習慣継続の戦略

10年半ほど前から、意識的に階段を使うようにしました。

きっかけは大げさなものではありません。

エレベーターを待っている時間がもったいないと感じただけです。

最初は職場の2階分だけ。
それが3階になり、4階になり、
気づけば階段を6階分ほぼ全部使うようになっていました。

結果として、10年で13 kgほど体重が落ちました。

ただ、体重が落ちたことより、
なぜ続いたか」のほうが自分には興味深かったです。

食べ放題で気づいた「向かう過程の充実」と、
階段の習慣は、実は深く結びついています。

階段の登り降りには、「満腹になる」設計がありません

一度登り降りして終わり、ではなく、
今日も、明日も、また登り降りします。

ゴールがずっと先にあるのではなく、
毎日小さなゴールがあります。

そのゴールを超えたら、
また翌日のゴールが現れます。

欲求を消費して終わりではなく、
欲求が毎日自然に更新されていきます。

この設計が、続く理由のひとつだと思っています。

もうひとつは、身体の変化フィードバックになることです。

40代になると、身体の変化はゆっくりになります。

筋肉が落ちやすくなり、
脂肪がつきやすくなります。

だから逆に、少しずつ変化が起きているときの感覚が、
以前より鮮明になった気がします。

階段の登り降りを習慣として続けていると、
ある時点から呼吸の切れ方が変わってきます。

以前は3階でもきつかったのが、
気づいたら5階でも乱れなくなっていました。

体重計の数字より、
こういう変化のほうが実感として先に来ます。

そして、その実感が「また次もも登り降りしよう」、
という動機に静かにつながっていきます。

40代で習慣が継続する理由は、意思の力ではないと感じています。

意思力は、疲弊します。

特に40代は仕事も家庭もあります。
エネルギーの余白が、20代より少ないです。

そこに「頑張る」系の行動を持ち込んでも、長くは続きません

実際に私が階段習慣を続けられた理由は、こちらでも詳しく書いています。

合わせて読みたい

続く習慣に共通しているのは、

「負荷が軽い」
「判断が不要」
「変化を身体で感じられる」

の3点だと思います。

階段の登り降りは、その3点をすべて満たしています。

特別な道具もいらない、
特別な時間もいらない、

判断の余地がほとんどありません。

エレベーターがあっても、
今日は階段にしよう」という一言だけで完結します。

その一言のハードルが、継続の鍵です。

快楽は消費、習慣は蓄積

人生の要素

食べ放題は、消費モデルです。

お金を払って、快楽を消費します。
食べ終わったら、何も残りません。

残るのは体重の増加と、翌日の胃もたれくらいです。

もちろん記憶は残ります。
あのとき楽しかった」という記憶は確かに価値があります。

でも、それは再現できません
同じ感動を得るには、また行かなければなりません。

快楽はリセットされます。だから消費し続けるしかありません。

一方、習慣蓄積モデルです。

階段を一段登ることは、単独では何も生みません。

でも、それが100日続いたとき、
身体の中に何かが静かに積み上がっています。

肺活量かもしれない、
脚の筋肉かもしれない、
基礎代謝かもしれない。

数値は曖昧でも、
身体はそれを記憶しています。

大事なのは、
この差が時間とともに大きく広がることです。

1年後、食べ放題の記憶は薄れています。
でも、日々階段の登り降りを続けてきた身体は変わっています。

3年後、消費モデルで得たものはほとんど残っていませんが、
蓄積モデルで積み上げたものは確実に存在しています。

ここで誤解したくないのは、
「快楽が悪い」という話をしたいわけではないことです。

ズワイガニは美味しかったです。
また行きたい、とも思います。

問題は価値観の話ではなく、
仕組みの話です。

消費と蓄積、どちらの行動に時間とエネルギーを割くかが、
数年後の自分に効いてきます。

診療放射線技師として病院に勤めていると、
身体を「資本」として見る視点が自然に育ちます。

レントゲンやCTの画像は、
外側からは見えない身体の内部を映します。

画像を見ていると、
10年・20年の生活習慣の蓄積が、
静かに映し出されていることがあります。

骨密度、
筋肉量、
内臓脂肪の量。

それは、何を積み上げてきたかのでもあり、
何を積み上げてこなかったかのでもあります。

身体は正直です。

何を積み上げてきたか
あるいは何を消費し続けてきたか
画像はそれを語ります。

「満腹は一瞬、習慣は蓄積する」という結論

あの夜、いつもの階段を登りながら気づいたことを、少し言葉にしてみます。

「満腹」は状態です。

ある瞬間に達成されて、
時間が経つとリセットされます。

何度も繰り返せますが、
その都度また消費しなければなりません。

「習慣」は方向です。

昨日の積み重ねの上に今日があり、
今日の上に明日があります。

リセットされません。
やめなければ、増え続けます

自分の生活の中で、
「満腹型」と「蓄積型」の行動を仕分けてみると、
少し見えてくるものがあります。

SNSのスクロール満腹型に近いです。

見終わった瞬間、
なんとなく虚無感があります。

逆に、読書蓄積型に近いです。

一冊読み終えた積み重ねが、
何かを少しずつ変えていきます。

そして、階段の登り降りの習慣は、
典型的な蓄積型の行動です。

13 kg落ちたことは、数字として確かです。

でも振り返ると、
目標として「13 kg落とす」と設定したわけではありませんでした。

気づいたら、身体が変わっていました。
変化が先にあって、数字はあとからついてきました。

これが蓄積型の特徴だと思います。

強く意識しなくても、方向さえ合っていれば、
結果は時間が連れてきます。

選択基準が変わった、と感じることがあります。

以前は「何が楽しいか」で行動を選んでいました。

今は「何が残るか」という感覚が、もう一本の軸として加わっています。

楽しさを否定しているわけではなく、
視点がひとつ増えたという感覚です。

だから私は、今日も階段を選ぶ

派手さはありません。
誰かに褒められるわけでもありません。
階段を登り降りしたことをSNSに投稿しても、反応は来ません。

タイムラインを彩るような華やかさとは、対極にある行動です。

でも、裏切られたことがありません。

天気が悪くても、
仕事がうまくいかない日も、
眠れなかった翌朝も、階段はそこにあります。

気分に左右されません。

調子が悪い日に「今日は休もう」と思っても、
エレベーターの前で立ち止まったとき、
「まあ、階段でいいか」と身体が動きます。

継続してきたから、
考えるより先に身体が向かいます。

習慣とはそういうものだと思っています。
意思が弱くても続く仕組みが、本当の習慣です。

ここで未来に残るもの、という言葉を考えます。

食べ放題の満足感は、翌日には消えています。
でも、毎日の階段の積み重ねは、
例えば2年後の自分に静かに届きます。

今の自分は、
2年前の自分が積んだものの上に立っています。

それを実感できるようになると、
今日の一段が少しだけ違う意味を持ちます。

最初の一歩
という表現は少し大げさかもしれません。

階段の場合、文字通り「一段」でいいです。

エレベーターを素通りして、一段だけ上ってみる。
それだけで何かが始まります。

「毎日継続しよう」と決意しなくていいです。
「今日は一段」でいい。

40代の習慣は、頑張って始めるものより、
気づいたら続いているものが強いです。

職場でも家庭でも、
頑張ることへの消耗は積み重なっている年代です。

そこに「新しい努力」を追加するより、
「すでにある動線」に習慣を埋め込むほうが現実的だと感じています。

エレベーターを使うつもりだったのに、
なんとなく階段を選んだ。

そのくらいの軽さが、長く続きます。

まとめ:満たすより、積み上げる日々へ

ズワイガニの食べ放題は、楽しかったです。

でも帰り道の静けさが、別のことを教えてくれました。

満腹は一瞬で、消えていきます。
習慣は、静かに積み上がっていきます。

この2つの違いを言葉にするのは難しいです。

身体で覚えたことのほうが、説明より先に来ます。

階段の登り降り10年半継続して、13 kg落ちた身体がその答えを持っています。

継続は力なり」という言葉は、少し重いです。

気づいたら続いていた」くらいの軽さで、
習慣は本当に積み上がります。

今日、もしエレベーターの前で少し立ち止まったなら、
一段だけ試してみてもいいかもしれません。

決意はいりません。
決断もいりません。
ただ、一段

それだけで、何かが始まることもあります。

だからこそ、今日もまた、私は階段を登り降りします。

おことわり

本記事では、特定の商品やサービスの紹介は行っていません。

階段の登り降りという習慣は、特別な道具がなくても始められるものだと考えているためです。

なお、習慣の記録や体調の変化を把握するために、簡単なツールを使うことはありますが、それはあくまで補助的なものです。

こうしたツールについては、別の記事で実際に使っているものを紹介しています。

まずは、日常の中で無理なく続けられるかどうかを大切にしています。

本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。

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この記事を書いた人

“じみ” に “もくもく” と “すきなこと” を “継続する” ことが最近の楽しみです。

『人生を自由に楽しく』が目標です。

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