ある時期から、
荷物を減らすことを少し意識するようになりました。
大げさな断捨離ではありません。
ただ、「これは本当に必要か」と問い直すことが、
自然に増えていきました。
その変化は、日々の階段の登り降りと、
どこかでつながっていた気がしています。
階段の登り降りが教えてくれる “シンプルさ”

階段の登り降りは、道具がいりません。
ウェアがあれば十分で、
特別なシューズも、機器も、アプリも必要ありません。
自分の身体と、階段だけがあれば、
それで成立します。
最初は「手軽だから」という理由で始めました。
でも続けていくうちに、この「手軽さ」が、
単なる利便性以上の何かを運んでくるようになりました。
その繰り返しの中で、
意識が研ぎ澄まされていく感覚があります。
という感じとでも言うのでしょうか。
うまく言葉にできないのですが、
階段の登り降りを続けるうちに、
「持つこと」と「動くこと」の関係を、
身体で少しずつ理解していったような気がしています。
これは比喩ではなく、文字通りの話です。
そしてその感覚が、日常のさまざまな場面にも、
静かにしみ出していきました。
持たないという選択がもたらす自由

所有することには、喜びがあります。
それを否定したいわけではありません。
ただ、持つことには、
必ずそれに付随するものがあります。
持ち物が増えるほど、守るべきものが増え、
動ける幅が少しずつ狭くなる感覚があります。
ある時期、引っ越しを経験しました。
荷物を箱に詰めながら、
「これはなぜ持っているのだろう」と思うものが、
思いのほか多くありました。
そういうものが、部屋の隅に静かに積み上がっていました。
持たないという選択は、
ものを粗末にすることではないと思います。
それ以上を抱えないことで生まれる、
身軽さと自由があります。
階段を登り降りするとき、荷物は持ちません。
両手が空いていると、ペースを自分で決められます。
その自由は、小さいけれど、
確かなものです。
持たないことが、すべての場面で正解だとは思いません。
ただ、持つことを「当然」として疑わなかったものを、
一度手放してみたとき、
思っていたより多くのものが、そこに残っていた、
そんな経験があります。
墓を持つという前提を疑う

「お墓は持つもの」だと、ずっと思っていました。
疑ったことすら、なかったかもしれません。
それは当然の流れとして、意識の中にありました。
でも、ある時期から、
少し立ち止まって考えるようになりました。
墓を持つことには、費用がかかります。
購入費用だけでなく、
管理費、維持費、法要にかかる費用が続きます。
そして、自分がいなくなった後も、
誰かがそれを引き継がなければなりません。
次の世代に、
その負担を渡すことになるかもしれません。
その事実を、あらためて意識したとき、
「それでも墓を持ちたいか」という問いが、自然と浮かんできました。
答えを出そうとしたわけではありません。
ただ、「持つことが前提」だった場所に、
初めて「問い」が生まれた、という感覚がありました。
前提とは、
気づかないほど深く染み込んでいるものです。
疑うことは、否定することではありません。
ただ、「なぜそうなのか」を一度、
自分の言葉で確かめてみること。
墓について考え始めたとき、
それをしていなかったことに気づきました。
持つことが自分にとって大切な意味を持つなら、
それはとても良いことだと思います。
ただ、「なんとなく持つもの」として選んでいたとすれば、
一度だけ、問いを向けてみてもいいかもしれません。
自然に還るという考え方

そうした言葉を、宗教的な意味というより、
自然の循環の中に自分も含まれているという感覚として受け取ることがあります。
階段を登り降りしながら、
ふとそういうことを考えることがあります。
でもこれはいつまでも続くわけではありません。
この身体を構成している何かは、いつか形を変えて、
別の何かになっていくのかもしれません。
大げさな話をしたいわけではありません。
ただ、そういう視点で自分を眺めてみると、
「所有する」という感覚が、少し遠くなります。
身体すら、
一時的に借りているものかもしれない。
そう思うと、何かを持ち続けることへの執着が、
ほんの少し軽くなる感じがあります。
自然に還るという考え方は、
諦めではないと感じています。
むしろ、循環の中にいることへの、
静かな安心感に近いものがあります。
どこかへ還っていく場所がある、
という感覚とでも言うのでしょうか。
うまく言葉にはできないのですが、
その感覚が、最期のかたちを考えるときの、
ひとつの手がかりになってきています。
まとめ:身軽に生きることと、最期のかたち

生き方と、最期のかたちは、
案外つながっているかもしれません。
荷物を少なくして生きたいと思うなら、
最期にもあまり荷物を残さない形が、
自分には合うのかもしれません。
自然の中にいることが好きなら、
自然に還ることを選んでもいいかもしれません。
人に縛られずに動きたいなら、
死後も誰かを縛らない形を選べるかもしれません。
そう考えると、これはまだ先の話ではなくなります。
今、どう生きているかが、
最期のかたちへの問いと、
静かにつながっていきます。
自分の身体と、目の前の一段だけがあれば、
続けられます。
それが心地よいと感じるようになってから、
「持たないこと」への見方が少し変わってきました。
そういう感覚が、
最期をどう迎えるかという問いにも、
少しずつ影響を与えています。
それはまだ、整理の途中です。
ただ、「墓を持つことが当然」という前提が、
少し緩んだことは確かです。
そしてその先に、
自分が選べる何かがあるような気がしています。
もし同じような問いを持ったことがあれば、 次の記事で、もう少し先へ進んでみます。
次の記事では、「自然に還る選択」として、
具体的にどんな考え方があるのかを、もう少し手前まで見ていきます。
おことわり
本記事は、日常の階段の登り降りの中で、筆者が自然と考えるようになった思考の記録です。
特定の選択を推奨したり、価値観を否定したりする意図はありません。
お墓や終活に関する判断は、ご自身と大切な方々との対話の中で、ゆっくりと考えていただければと思います。
本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。
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