どこかで耳にしたこの言葉に、
ふと足を止めたことはないでしょうか。
40代に入ってから、
この1文がやけに胸に残るようになりました。
若い頃なら、たぶん聞き流していたはずなのに。
何か大きなことを始めるには、
時間も体力も、もう若い頃ほどは残っていない。
かといって、このまま何もせず
日々をやり過ごすには、人生はまだ長い。
その宙ぶらりんの感覚を、
今日は静かに、ほどいてみたいと思います。
なぜ40代で、この言葉が静かに刺さるのか

20代の頃は、時間は無限にあるように感じていました。
けれど40代になると、
人生の残り時間が、急に輪郭を持ち始めます。
そういうものが、少しずつ「終わり」を意識させる。
その一方で、
まだ折り返したばかりだという感覚もあります。
あと何十年か、生きていく時間が残っている。
だからこそ、厄介なのです。
「もう遅い」と諦めるには早すぎて、
「これから何にでもなれる」と夢を見るには、
少しだけ現実が見えすぎている。
その中間で立ち止まっているのが、40代なのだと思います。
「何もしない」でも「何かする」でもない、第3の道

この言葉が私たちを苦しめるのは、
たぶん、選択肢を二つしか示していないからです。
その2択で考えるかぎり、
40代はどちらにも振り切れず、
宙づりのまま残されてしまいます。
けれど、本当に道は2つだけなのでしょうか。
私は、もう一つあると思っています。
派手な「何か」ではなく、
かといって「何もしない」のでもない。
1日の差は、ほとんど誤差です。
けれど、その誤差を何年も積み上げたとき、
気づけば、別の場所に立っている。
私が11年、階段の登り降りで確かめてきたこと

始めた頃は、何も信じていなかった
私が階段の登り降りを始めたのは、
40代を目前にした、ある平凡な日でした。
それだけのことでした。
正直に言えば、
始めた頃は何も信じていませんでした。
「こんな小さなことで、何が変わるのか」と。
変化を期待していなかったから、
逆に、やめる理由もなかったのかもしれません。
気づけば、11年が過ぎていました。
やめなかったのは、頑張らなかったから
続けられた理由を、ときどき聞かれます。
けれど、意志が強いわけでも、
根性があるわけでもありません。
むしろ逆で、
一度も「頑張ろう」と思わなかったから、
続いたのだと思います。
雨の朝も、寝不足の朝も、
階段だけは、なぜか登り降りしていました。
同じ階段を、
桜の頃も、真夏も、雪の朝も登りました。
景色だけが移り変わって、
自分の脚だけが、ずっと同じリズムを刻んでいる。
その単調さが、いま思えば、
いちばんの贅沢だったのかもしれません。
劇的な変化があったわけではありません。
ただ、脂肪肝と言われた身体が、
少しずつ軽くなっていきました。
この11年で身体に起きたことは、
別の記事に具体的に書いています。

ここでは、その先にあった気づきの話をさせてください。
いちばん変わったのは、
体重でも体脂肪でもありませんでした。
それが、いちばんの収穫だったように思います。
小さな一段は、複利で効いてくる

続けてみて、ようやく腑に落ちたことがあります。
運動の強さを表す「メッツ」という指標があります。
階段の登り降りは、平地を歩くよりも
負荷の高い運動として知られています。
特別な道具も、まとまった時間もいらないのに、
日常の中に、運動が自然と溶け込んでいく。
けれど、本当の効きめは数字ではありません。
一段を登るたびに、
「今日も、自分との約束を守れた」という、
小さな自己信頼が積み上がっていく。
面白いのは、
この感覚が、階段の外にも広がっていったことです。
そのやり方を一度身体が覚えると、
仕事でも、文章でも、同じように
「まず一段だけ」と思えるようになる。
1日では、見えません。
1週間でも、たぶん見えない。
けれど1年、3年、10年と重ねたとき、
複利は静かに、確かな差になっています。
まとめ:続けることが、静かな答えになる

この言葉への、私なりの答えはこうです。
それは「何もしない」ことではなく、
かといって人生を賭けた挑戦でもない。
その中間にある、第3の道です。
長すぎる人生も、短すぎる人生も、
一段ずつなら、ちゃんと登っていける。
あなたの1段目は、
どこに置きますか。
続きを、静かに
同じ40代の身体実験と、夜更けに考えたことを、noteマガジンにまとめています。
新しい記事は、ここに静かに足していきます。
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おことわり
本記事は情報提供を目的としており、特定の効果・効能を保証するものではありません。
健康に関するご判断は、必ず医師・専門家にご相談ください。
本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。

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